2018年10月30日火曜日

ブログ10:ハンバーガーの歴史

今日はハンバーガーの歴史について少し紹介したいと思います。ハンバーガーと言う食べ物は元々アメリカで作られたもので、19世紀に初めて作られたと言う。基本は、パンの間に焼いた挽肉を挟んで食べます。何年間か食べられて来て、現在のハンバーガーは色々なものが追加されています。一番人気のトッピングはチーズだと思います。その他にもレタスやトマト、または玉ねぎやベーコンを乗せる人もいます。ファットバーガーというとても有名なロサンゼルスのハンバーガー店では目玉焼きの卵をのせます、とても美味しいです。
日本には二種類のハンバーガーがあります。まず最小はアメリカで食べられるようなパンに挟むハンバーガーと、和風ハンバーグステーキがあります。僕はどっちも好きですが、人によって好みは違います。あと、和風スタイルのハンバーグステーキはデミソースで食べるかおろしを乗せて食べるかのどっちかです。日本ハンバーガーはアメリカほど美味しくないと言う人もいますが、僕は日本のも美味しいと思います。あと僕は日本のマックの方がアメリカより美味しいと思います。

キットカットの歴史

最近、読んだところによると、キットカットは日本の方がアメリカより売っているだって。なぜかというと、日本でキットカットは特別なお菓子になったからです。

始めに、ラウントリーとふじやという会社の業務提携を通して、キットカットは日本に導入しました。1973年から今に至るまで、キットカットが普及して、やっと六年前ぐらい明治チョコより人気になりました。

どうやってこの西洋風のお菓子がそんなに人気になったの?なぜかというと、生産や販売の制度だからです。キットカットの成功を保存するために、ネスレという会社はこの制度に頼れます。というのは、キットカットはほとんどコンビニで売っているので、たいてい小さいロットが作られて、季節や地域によって変わります。研究者によると、そうしない限り、売れ行きは下がれます。でも、特別な味は短い時間、あるいは、ある場所だけで買えるなら、売れ行きが確保します。




もちろん、全国で買えるキットカットの種類があります。抹茶やイチゴなどのをどこでも買えて、あまり特別じゃありません。しかし、地元によって特別な味もあると聞きました。例えば、沖縄県で旅行するなら、紅いものキットカットはお土産として人気で、是非食べてみるべきだ。とってもおいしくて、沖縄らしい味なので、とても面白いです。

2018年10月29日月曜日

ブログ10ラーメン

私はラーメンを考えると日本料理のイメージがあふれだす。なぜなら、ラーメンは日本の代表的な料理だからだ。しかし、実はラーメンの原点は中国だそうだ。ラーメンは中国から輸入した料理だ。
 日本で初めてラーメンの原点の中華めんを食べた人物は水戸黄門だそうだ。江戸時代の真ん中に生きた殿様は珍しい料理を食べるのが大好きだったそうだ。
中華めん以外に水戸黄門様はヨーグルトやワインをよく食べたり飲んだりしたそうだ。 横浜ラーメンの博物館によると初めてのラーメン店は1910年に浅草で来来軒と言う店だったそうだ。大正時代にラーメンは日本ですごく流行ったそうだ。
 中国の移民から中国のめんが日本に伝えられたそうだ。ラーメンと言う言葉は中国の言葉だ。ラーメン以外で言う言葉は中華そばや支那そばと言われたそうだ。
 この大正時代でいっぱいラーメン屋さんが関東地区で建てられた。しかし、1923年の9月1日に関東大地震があった。それで、ほとんどのラーメン屋さんは破壊した。その後、ラーメン屋さんは屋台で生き続けた。その屋台の理由でラーメンは日本に広がった。
 第二世界大戦の時、日本全国でラーメン屋さんが閉まった。その理由は食材が少なくてラーメンが作れなかったそうだ。戦争が終わった後、ラーメンは闇市で存在が続いた。いろいろなヤクザ組織がラーメン屋さんを立てたそうだ。1950年代に安藤百福さんがチキンラーメンの発明された。その時からラーメンは日本以外にも世界中に広がった。

2018年10月23日火曜日

ハミルトン


私にとってアレクサンダーハミルトンがとても面白い人だと思う。なぜならば、4年前に彼の人生に基づいている「アレクサンダーハミルトン」というミュージカルが作られたからだ。リン・マヌエル・ミランダと呼ばれている人がアレクサンダーハミルトンの人生に関しての本を読み、ハミルトンが障害に打ち勝ちましたので、鼓舞されました。もともとリンさんがハミルトンの人生に関して詩を書いたが、多くほめられたのでもっと書こうと決めました。
アレクサンダーハミルトンは1755年に、ネビスというカリビアンにある所で生まれた。お父さんがいなかったうえお母さんが病気で死んでしまったので、孤児となってしまった。まず従兄弟と住むようになったが、従兄弟が自殺してしまったらしい。ハミルトンがとても若かったときにそういうことを体験したという理由で、生活は苦しかったと思う。孤児になったあと、豪商に養子にされ、貿易を通して多くのことを学べ賢い人になったと言われている。若いころに、もっといい教育をもらうために移民としてアメリカに行くことになった。アメリカでは、現在「コロンビア」と知られている大学に通っており、法律を勉強し、政治に関する事柄に活躍していた。

ハミルトンが若かった時に、アメリカはまだ13のイギリス植民地だった。アメリカの独立戦争に参加し、ワシントンと呼んでいるアメリカの最初の大統領の軍事諮問になった。アメリカが勝ったあと、ハミルトンはアメリカ憲法制定者の一人になった。ハミルトンはとても勤勉な人で、彼の指導でアメリカの最初の銀行や財務省が作られた。アメリカの10ドルにある顔がハミルトンの顔である。

アロンバーがハミルトンのライバルの人である。アロンバーも政治家で、政治上の信念はハミルトンと全く違ったので、いつもお互い議論していた。バーは大統領になりたかったけど、ハミルトンは反対側を応援したからこそ、バーは負けてしまったとよく言われている。1804年に、バーに戦いを挑まれ、殺されてしまった。ハミルトンだけでなく、ハミルトンの息子も同じ風に殺されたので、とても面白いと思う。

Blog#9) Soju




    の文化で、「お酒は何本めますか。」という質問をよく聞くだろう。これは、他のを酒ではなくて韓国の焼酒のことで、たいてい、初めて誰かをあったときや、知っていく段階で必ず使われている質問である。韓国ではお酒をどのぐらい飲めて、どのぐらい強いかということはとても大事な特状だと言われている。


      欧米やヨロッパではお酒の話をするとき、「ショット」の単位が広く使われているが、韓国ではどうして本の数が数えられているだろう。それは、韓国の焼酒は西洋でよく飲まれているウォツカやデキーラよりアルコルが弱いからだ。元々は焼酒といえば、もっと強いお酒というイメージが強かった。90年代頃は25%以上の焼酒がほとんどだったが、今よく飲まれている人気の焼酒は13%ぐらいから20%を超えない。
      日本にも焼酎という、発音がとても似ているお酒がいて、英語では同じ飲み物だと思われるかもしれない。韓国でも昔は日本の焼酎のような作り方で作ったお酒があって、それのアルコルは20%—45%で結構高かった。二つの戦争のあと、とても貧乏な国だった韓国では、お米だけではなくて、ジャガイモなどの物を入れ始めきた。元はお米を蒸留したものだけあったが、90年代に入ってから希釈式の焼酎が主流になった。今は色々な味の焼酎が出ていて、あまりアルコルに強くない人でも低いアルコルで楽しめる。
      韓国のドラマや映画を見ると、苦しんでいる主人公は必ず緑色の本をといいる。それは焼で、たいてい何かと一緒に飲むことが多い。一番相性がいいと言われているのがサムギョプサル、さしみ、豆腐キムチなどが代表的だ。韓国人は焼酎


だけを飲んでなくて、結構ビールとミックスして飲む方も好きだ。これは韓国のビールは他の国のビールよりうすいから、独特の味ができるのだ。この方法は二つの酒を混ぜることで、もっと危ないかも知らないが、焼酎をあまり飲めない人には大人気だ。
      このように焼酎には韓国の飲む習慣だけでなく、歴史や考え方がある。韓国の文化をもっと調べたいならいますぐ焼酎を飲むべきだ。


ブログ9:歴史上の人物

歴史上の人物
僕が発表のために選んだ歴史上の人物はTupac Shakurです。彼は昔流行っていたHip-Hopのラッパーで、80年代から90年代にかけてとても人気でした。僕がTupacに興味を持つようになったのは僕の父のおかげです。僕の父は弟と僕が生まれる前はMusic Videoのテレビ番組のプロデューサーとして働いていました。Tupacはその頃まだ二十歳にもなってなかった若手ラッパーでした。彼の一番最初のテレビデビューは父の番組でした。Tupacが生きてた時は多分世界で一番知られていたラッパーだったと思います。Tupacはロサンゼルス出身だったので、アメリカの西海岸に大注目されていました。当時、アメリカのラップ界では西vs東のライバル感がとても大っきくて、西海岸のラッパーは東海岸、特亜にニューヨークのラッパー、とHip-Hopの争いをしていました。
 
Tupacのラップがとても人気になったのは、彼の歌の内容だと思います。Tupacの魅力は西vs東の争いに巻き込まれず、自分が話したかったことについてラップをしたからです。世界の平和や人種差別に対するラップをTupacは若い頃から作っていました。Tupacは残念なことに25歳の時にラスベガスで銃で打たれて死んでしまいました。Tupacの死は今でも解決されていません。Tupacに近かった人やTupacの家族は「東海岸のTupac」と呼んでもおかしくないNotorious B.I.G.というもう一人の若手ラッパーに殺されたという人も多い。当時ニューヨークラップの世界では一番売れていたラッパーです。僕はTupacの音楽が大好きなので、まだ生きていて欲しかったです。多分今でも大ヒットを作っていたと思います。

餅アイスについて


 私は、餅アイスについて発表したと思う。なぜかと言うと、最近欧米から日本に輸入して、日本的に変化している物について学んでいるので、外国からアメリカ的に変化したものを調べたいと思った。おそらくアメリカは日本と並んで、様々な国々の影響を受けてきただろう。例えば、餅アイスの場合について考えよう。

 
 橋本フランセスという人は1943年にアリゾナ州の収容所で生まれた。第二次世界大戦の終わると共に、橋本さんは親と一緒にロスアンゼルスに戻って、家族の会社を働いて続けた。会社の名前は三河屋で、1910年に建てられたお菓子屋だ。橋本さんのご両親は和菓子を作れて、戦後にリトル東京で売っていた。
 1970年に橋本さんのお父さんはなくなってしまって、27歳で最高経営責任者になった。毎年ずつ、橋本さんは最高経営責任者として三河屋の店を増えるように頑張ったので、リトル東京の所で働いているばかりでなく、トランス、ガルデナ、ホノルルで新しい店を開けた。それから、アメリカ人のご主人と相談を通して、アメリカ風のお菓子を生み出した。新聞で読んだところによると、ご主人さんはアイスクリームの小さいボールが餅を包むべきだっと言った。そうすると、和菓子好きなお客さんと一般的なアメリカ人も好めるお菓子を売っているようになると思っていた。
 橋本さんは賛成した。それで、当時から十年後にかけて、生産の制度を研究した。言うまでもなく、弱く餅を使い方はもう難しくても、アイスと用いるのは空前だ。しかし、橋本さんは諦めないで我慢したので、とうとう1994年に餅アイスを導入した。
 現在のスーパーの冷凍部からすると、素晴らしい成功だった。もうすぐに餅アイスは人気になったので、真似しているものはすぐに表した。アメリカの商品で言うと、恒久的なインパクトを行われた。今、普通のスーパーに歩くと、橋本さんが生み出した餅アイスも同じような日本的なアイスを見つけられて、バニラやアズキや抹茶などの味があるので、種類は少なくない。人々を聞くと、食べた事はなくても、聞いたことがあるはずだ。その他、今までも全国のスーパーでほとんど三河屋製の餅アイスである。橋本さんはなくなってしまったのに、三河屋は一般的に餅アイスを生産するための会社になって、まだ人気だ。
 橋本さんについて聞いたら、自分の会社をたてられて、空前のものを生み出すことができるという感じだっと思う。橋本さんの人生は問題が少なくないの事実だが、我慢するように文化の橋をたてられて、アメリカに大きい影響を与えた。
 「これで餅アイスについての発表を終わります。何か質問はありませんか?」